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介護お疲れ様です

 投稿者:nick  投稿日:2009年 6月29日(月)08時56分25秒
返信・引用
  ご心痛ですね。
父は延命を尋ねたら激しく首を振って拒否しまして
この春、自宅で朝食後逝きました。

先生は再三挿入管による摂取を勧められたのですが。。
この三年程、在宅でも、毎食時、数回の吸引をしてました。
もちろん深夜も痰が詰るので、、、同じように何回も。
その都度涙目で見つめて哀願していました。
辛かったのでしょうね。
もうそれ以上のことは出来ませんでした。

ご健康に留意され充分の介護を。

☆6/14韓国岳からの天孫降臨の地・高千穂峯
手前は噴煙を揚げる新燃岳のお鉢(火口)

http://hayato.com/blog/

 

ご挨拶

 投稿者:印西太郎  投稿日:2009年 5月 6日(水)18時03分54秒
返信・引用
  連休も最終日。物部氏関係の調べごとで、ネットを廻っていて、kituno様のホームページにたどり着きました。簡単ですがご挨拶させていただきます。こちらは、千葉県印西市在住で、里山巡りと古代史のことを休日に調べています。千葉県は古墳も多いです。常陸の方は筑波山と鹿島神宮に何度も行っていますが、香取の海を挟んで、古代には交流が多かったようですね。今後またご訪問することもあるかと思いますが、よろしくお願い申し上げます。  
    (管理人) ご丁寧にご挨拶をありがとうございます。物部氏についてはどうして興味を持たれたのでしょうか。是非聞かせてください。
私はなかなかネットに繋ぐことができない状況にあるのですが、また遊びに来て、千葉県の古代史について話を聞かせてくださいね。
よろしくお願いします。
 

聖徳太子も信長も

 投稿者:らびちゃん  投稿日:2009年 4月 5日(日)22時54分21秒
返信・引用
  ずいぶん昔、7年くらいまえにROMってたものですが、その時は太子と信長に恋してます!て正反対の人物でねぇか?て思ったんですけど最近堺屋太一さんが太子はユビキタス社会を目指していた!ていうのをきいて、信長も新時代の開拓者だったなて思ったんです。そしたらこの掲示板おもいだしちゃって
あたし思うんですけど今の時代は流れが早すぎないですか?あたし、といっても男ですが、信長みたいに未来思考じゃないと駄目だと思います。こんど東京スカイツリてできますよね?安土城みたいですよね。あづちて安寧の地の造語てきいたことありますけど。話はとびますが関宿城ていったことありますか?多分近いと思います。
 
    (管理人) 7年も前に遊びに来てくださっていた方がこうして書き込みをしてくださるなんて、本当にうれしいです。
私の中では、聖徳太子と織田信長と私自身は一本の線でつながっています。聖徳太子について知りたくなったのも、織田信長について知りたくなったのもただの偶然ではなく必然だったのだと思っています。
そして、掲示板を通して知り合った皆さんとも線でつながっているのです。
 

みなさん、ありがとうございます。

 投稿者:kituno  投稿日:2009年 3月20日(金)21時03分49秒
返信・引用
  掲示板の返信、必ずします。
その前に、私のブログをちょっと覗いてください。

トピックや掲示板は、携帯でも確認しています。
皆さんの書き込みをとても楽しみに読ませてもらっています。

http://blogs.yahoo.co.jp/kituno_i

 

法隆寺金堂再建の謎

 投稿者:いわお  投稿日:2009年 3月20日(金)11時59分5秒
返信・引用 編集済
  以前 Kituno 様のブログに1・2度コメントした いわお です。

去る3月15日晩、NHK総合TVのNHKスペシャルで「法隆寺金堂再建の謎」が放映されました。
(ご承知の方は以下読み飛ばしてください)

昨年終了した金堂の修理工事の際に、金堂天井板の年輪パターンを解析した結果、この材が調製された年代は668年と判明したとのことです。日本書紀にある天智 9(670)年の法隆寺全焼の2年前、したがってこの建物はこの時点でほぼ形を成していたと考えられ、他の発掘調査とも照し合せて、このとき焼けたのは、現在東院(夢殿)のあたりにあった若草伽藍と考えられるという結論でした。

現在金堂となっている建物は、天智天皇が聖徳太子の徳を、太子になぞらえた釈迦三尊像ほかを展示してたたえ、諸豪族に結束を説く場として若草伽藍の傍に建てられたことから始まるということであると、私は理解しました。、

(追記)梅原猛著「隠された十字架」(この本で、私は多少法隆寺に興味を持つようになりました)では金堂の本尊は再建後、他の寺から移されたと想像していますが、上記によればこの点は無理なく説明されると思います。だだ、鎌倉時代に製作(1232年)された阿弥陀如来像のところに従前置かれていたのは、台座の塗り残し部分の寸法から、夢殿の救世観音と推定していましたが、金銅仏と木佛(金銅のような外観に仕上げてある)の取り合わせは少々違和感があります。
 
    (管理人) 私もDVDに録画して見ました。
金堂が天智天皇の時代に建立されていた可能性が大きいことを知り、また火災にあっていなかったことを知り、ものすごく感動するとともに、私がHPに掲載している「天智天皇の謎」の中で推論した「天智は聖徳太子の孫ではないか」と説が何だか真実味を帯びてきたように勝手に思い込み、喜んでいます。^^;;
【2007年の法隆寺夏期大学で、現在の法隆寺金堂の本尊である「釈迦三尊像」に火災の跡が見られないことの理由の一つとして、法隆寺の五重塔よりも古い段階で現金堂が建立されていたことを示す建設学的事実もあり、仏像庫的役割として現金堂が若草伽藍と並立していた可能性も考えられるということを学んできました。】
...ということを昨年の4月にHPに掲載しました。
詳しくはトップペ-ジかた「若草伽藍と現法隆寺」をクリックしてください。
 

「ナ」

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 3月17日(火)18時15分36秒
返信・引用
  いつもながら論理的に教えて頂きありがとうございます。
hnさんの博識ぶりに感服しました。

「クン・ナラ」説はだいぶ昔に何かの本に出ていたのを検証もせずにウロ覚えのままでいたところですが、
奈良県内にそんなに「ナラ」のつく地名があるとは知りませんでした。面白い指摘に少し興奮しました。^_^
色々ありがとうございました。

「ナ」といえば、すぐに「奴国」を思い出します。
この「ナ」は「野」とか「地」の意味でしょうかね?
「野」や「地」ならば何となく「国」にも通じますね。
(「狗奴国」もですが、こちらは「クマソの国・クマ国」ということかもしれません)
 

Re: 「奈良」

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 3月 9日(月)01時45分26秒
返信・引用
  > No.1459[元記事へ]

Minstrelさんへのお返事です。

「やま」については、また後日、書き込みたいと思いますが、とりあえず「なら」について、コメントします。

> ところで、「奈良」とは、古代朝鮮語の「国」の意味だといいますが、一方で、日本語の「(土地を)ならす」の
> 意味だという説も聞いたことがあります。
> 「百済」が「クン・ナラ」で「大・国」の意味だとすれば、「奈良」は「国」の意でピッタリくるように思います。

> hnさんは「奈良」について何かコメントはありますか?(いつも質問ばかりですみません)

 奈良県下には 「なら」のつく地名が、確か1万ぐらいあるそうです。勿論、「奈良」という表記だけではなく、「楢」の表記など様々ですが、これらの「なら」地名の多さを考えると、「なら」が「国」の意味だというのは、ありえない話です。
「楢本」「楢山」「楢井」「楢坂」などの地名が多いようですが、これはやはり、小高い地形(岡、小山など)や谷などを「削平」した、即ち、「均した」ことによる地名が大半だと思われます。勿論、「楢の木」にちなんだ地名もあったかもしれません。

 「百済」の国名は、韓国側の史料では、「伯済」「百済」といった漢字国名の音(ペクチェなど)しかなく、「くだら」とこれを読むのは日本側の史料が主です。「ナラ」なる「韓国語」がたしかに存在し、それが「国」を意味する、という証明が確実になされている、という話も聞いた覚えがありません。満州・ツングース諸語で「地」を表す「na、naa」つまり上代日本語の「な」(地、古語の「なゐ<地震)」の「な」)やその母音交替形の「の」<野>については前にも触れましたが、朝鮮語にもこれらと同源の語彙としての「ナ」はありますが、「ナラ」なる「国」を意味する韓国朝鮮語の古い時代の語彙があった確証は、繰り返しますが、ないと思います。即ち、「くだら」なる、半島や中国の史料になく、日本側のみに存在する国名を、韓国語であると言いたいための臆説が「クン・ナラ」=「百済」という説だと私は評価しています。

 一方、「くだら」なる日本側に伝えられた国名は「高句麗」(韓国語では「コグリョ)」や「しら+ぎ」あるいは「斯盧<シロ)」「新羅(シルラ)」といった、語末音節の子音が「r(l)」といった流音になるのと一致しており、これが百済国人の自称した国名であったことは確かであったと思われます。これらの語末の「ら、り、ろ」などは、おそらく日本語の複数を表すために語尾に付される「ら」(等)と同源の可能性が高いと思われますが、とすると「くだら」という国名は、本来の部族国家の名称として考える場合、「くだ」族の国あるいは「「くだ」部族、という意味だろうと推測することは可能ですが、それ以上は、遡って解釈することは困難です。トンデモ説としては「ヤマヒト」⇒「やまと」とは逆の語彙変化を想定して、「く族」=「く・ら(族)」⇒「くだ」(ダはラから変化した)⇒「くだ(ク族)ら(国・部族)」という変化もありえるか?と思っていますが、この場合の「ク」族とは勿論、高句麗の族名が「ク」であると想定しえるからです。「高句麗」の「高」は美称(中国語からの借用?、王莽が高句麗王を「下句麗侯」に改めたことがあります)「麗」はラ・リ・ロ」(麗、羅、離など、半島周辺の部族国家の名称の語末音節に現れる)と考えれば、「高句麗」という名称は「大(高)ク(句)部族(麗)」と解釈可能だからです。ここで、百済が、高句麗と同じ部族だったと述べていることを想起すれば、本来両国の支配階級の氏族名・部族名は共通だったと考えられるからです。
 勿論、「高句麗」を日本側が「こま」(高麗、狛)国と読んだほかに「くれ」(高句麗の「高」を省いた「句麗」、通常「呉」とも表記されて、中国との混同が生じた?)と呼んだ可能性が高いことも考慮に入れています。
 

「奈良」

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 3月 3日(火)11時05分59秒
返信・引用
  山族というと、文字通り「山の民」というイメージ。
これに対し、古代、海人族の影響もあちこちに強く見受けられます。

大陸から渡って来た渡来人たちは海人族のイメージで、
日本列島に古来からいる縄文人は山の人のイメージととらえています。

もちろんそんな単純なものではないと思いますが、主流どころはそのようなイメージでとらえても
あながち大ハズレではないように思います。

邪馬台国=大和であり、山族であるということになると、もともとは縄文人の国で、
そこに外部の渡来人の影響を受けながら続いて来た勢力であったととらえて良いのかなと思います。
(邪馬台国というと弥生時代のシンボル的な存在なので、山族の国というのに少々違和感もありますが)

ところで、「奈良」とは、古代朝鮮語の「国」の意味だといいますが、一方で、日本語の「(土地を)ならす」の
意味だという説も聞いたことがあります。
「百済」が「クン・ナラ」で「大・国」の意味だとすれば、「奈良」は「国」の意でピッタリくるように思います。

日本と朝鮮は、太平洋戦争の関係で今だに心情的にギクシャクした部分があるので
お互いに相手より上位であることを主張したがりますが、hnさんの弁辰弥烏邪馬国や天神イヒカのお話しのように
古代においては、朝鮮と倭国の境はいい加減なもので、お互いに混ざり合っていたようで、
「これは日本、こっちは朝鮮」と分ける方が無理な作業だと思います。

hnさんは「奈良」について何かコメントはありますか?(いつも質問ばかりですみません)

蘇我氏は倭人王家の分枝ですか。少し考えてみます。
 

Re: &gt; ヤマトとヤマタイ

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 2月24日(火)23時05分9秒
返信・引用
  > No.1457[元記事へ]

Minstrelさんへのお返事です。

> 「ヤマヒト」は「山の人」でしょうが、弥生人、渡来人は海人族のイメージが強いように思います。
> 対して、縄文系は山族のイメージがあります。
> もちろん、そんな単純には括れないでしょうが、「邪馬台」が「ヤマヒト」で山族だとすると、
> その歴史は相当に古い可能性があると思います。魏志倭人伝の時代の少し前に渡来人がたてたようなシナリオでは
> ないと思えます。

   これについては、上代日本語の「やま」なる語彙が、北方起源、おそらくアルタイ語族(個の語族の成立は、怪しいと思っていますが、「言語連合」としてのチュルク・モンゴル・ツングース3語族からなる「アルタイ語族」という仮称としては使用してよいと考えています)の「daba」「dabagan」といった「峠」「峠を越える」「山」「境界」というようなひろがりを持つ語彙の日本語形だと私は考えています。日本語では本来は「mountain」の語義を持つ語彙としては、「たけ(岳、嶽<「高い」)」とか「もり(森、杜<盛り)」といった語彙だったと思われます。「やま」は、天上界と「中つ国」之境界であり、本来神の領域に近い、という語義から、険峻な「山」に「やま」の語が当てられるようになったと考えています。これに対して、「の(野)〉やその母音交替形である「な(地)」が対応する語彙でしょう。『魏志倭人伝』では、倭人諸国の国名30ほどが挙げられていますが、最も多いのが「○奴国」です。この「奴」は「な、の」の音写であり、8ヶ国あります(狗奴国、奴国など)。一方「邪馬国」即ち「やま」国を称している国名は、わずかに2つ、旁国の一つ「邪馬国」と「邪馬台国」です。おそらく、この旁国の「邪馬国」こそが、「邪馬台国」の出自の地であったのではないでしょうか?
 即ち、「やまひと」=「邪馬」国・部族の「人」の語義であり、移住先で、「ヤマヒトの国」→「ヤマヒト国」→「ヤマト国」と変わったのでしょう。

 尚、『魏志東夷伝』(倭人条もその一部)の韓条に「弁辰弥烏邪馬国」が在りますが、この国も「倭人」と無縁の国ではないでしょう。同じ東夷伝である以上、「弥烏邪馬」の「邪馬」も「やま」の音写であることは明らかであり、韓国語に「やま」という語彙がない以上、倭人語であると解すべきです。この国は高霊に比定去れますが、記紀に言う「おほから(意富加羅)国」即ち「大加羅国」であり、大伽耶山には、天神イヒカ(夷〈田比〉〈言可〉)が降臨して、伽耶山の山神との間に大伽耶と金官伽耶の始祖王ヲ儲けたとする伝承があります。「夷」=「ゐ」=「倭」、「田比」・「言可」即ち「ひか」は「ひこ」(日子、彦>)と解すれば、「イヒカ」の名義は「倭彦」と解し得ます。
>
> 何となく、縄文人は弥生人に追われて東国へ、というイメージがありますが、弥生時代の王者(?)である邪馬台国が
> 山族の国であり、更にその後の王でもある大和朝廷も同じく山族の国であるとすれば、縄文以来続く勢力がそのまま
> 王者になったのかもしれません。
> 純粋な縄文人ではなく、弥生人と混血になっていったのでしょうが、「縄文人=敗者のイメージ」は捨てなければ
> なりません。

 おそらく、渡来した少数の日琉祖語話者(Y−O2b集団)は、先住の縄文人(Y−D2)集団の一部を、取り込んで、これらの所謂「在来系弥生人」と連合して、「東征」あるいは東方への移住ヲ行ったのだと思います。

> そしてその混血しながら続いていった様が、神武東征として表れているように思います。

 私もそう解釈しています。

> 考えてみれば、渡来系といわれる蘇我氏や、東国出身(?)の藤原氏などとも混血化しながら続いていったのが天皇家
> なので、その姿はずっと大昔からあったのかもしれませんね。

 蘇我氏は倭人王家の分枝だったと思います。

> 大まかな流れを掴みたいので、私の個人的なイメージばかり優先した話しになってすみません。
> いずれにしても、魏志倭人伝の後の時代に邪馬台国が東遷したというのは、どうも違うように感じます。
> その時代にはすでに大和には一大勢力があり、それこそが邪馬台国そのものではないかと思います。
>
> hnさんは九州説支持でしたっけ?

いえ、畿内説です。私は神武東征の時期は、弥生時代の後期の開始期、AD57年の倭奴国朝貢か、あるいはAD107年の倭国王帥升の生口160人献上のいずれかと関係していると考えています。
 

> ヤマトとヤマタイ

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 2月15日(日)16時28分47秒
返信・引用
  「邪馬台」は「ヤマト」ではないかというのは思っていましたが、hnさんご指摘の
「ヤマト」は「ヤマヒト」で隼人やクマソとの関連は興味深い指摘です。

「ヤマヒト」は「山の人」でしょうが、弥生人、渡来人は海人族のイメージが強いように思います。
対して、縄文系は山族のイメージがあります。
もちろん、そんな単純には括れないでしょうが、「邪馬台」が「ヤマヒト」で山族だとすると、
その歴史は相当に古い可能性があると思います。魏志倭人伝の時代の少し前に渡来人がたてたようなシナリオでは
ないと思えます。

何となく、縄文人は弥生人に追われて東国へ、というイメージがありますが、弥生時代の王者(?)である邪馬台国が
山族の国であり、更にその後の王でもある大和朝廷も同じく山族の国であるとすれば、縄文以来続く勢力がそのまま
王者になったのかもしれません。
純粋な縄文人ではなく、弥生人と混血になっていったのでしょうが、「縄文人=敗者のイメージ」は捨てなければ
なりません。

そしてその混血しながら続いていった様が、神武東征として表れているように思います。
考えてみれば、渡来系といわれる蘇我氏や、東国出身(?)の藤原氏などとも混血化しながら続いていったのが天皇家
なので、その姿はずっと大昔からあったのかもしれませんね。

大まかな流れを掴みたいので、私の個人的なイメージばかり優先した話しになってすみません。
いずれにしても、魏志倭人伝の後の時代に邪馬台国が東遷したというのは、どうも違うように感じます。
その時代にはすでに大和には一大勢力があり、それこそが邪馬台国そのものではないかと思います。

hnさんは九州説支持でしたっけ?
 

>ご当地邪馬台国説

 投稿者:ぶらいと  投稿日:2009年 2月 9日(月)00時55分37秒
返信・引用
  hn2602さん、こちらこそ、今年も宜しくお願い致します。

そうですか、退職後、仕事を続けられる予定ですか。医師なら次の仕事がすぐに見つかるでしょう。私は、最近、医学の研究のニュースや健康管理に興味を持っています。

>ご当地邪馬台国説というのがありますが、徳島説もその一つなのでしょうか?
>文献の読み方(解釈)の一つとして、徳島説を吟味する必要があると思います。

テレビでは、確か豊後水道を通り、高知沖を通り、徳島に行ったというようなことを言っていました。

しかし、インターネットで調べると実に多くの説があるようですね。卑弥呼は、神功皇后や倭百日日百襲姫というのが多いようです。

邪馬台国比定地一覧
http://inoues.net/waj.html
 

ご当地邪馬台国説

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 2月 8日(日)17時46分19秒
返信・引用
  というのがありますが、徳島説もその一つなのでしょうか?

 徳島説の提唱者が、徳島に地縁のある人であれば、その範疇に入れて良いと思われますが、徳島と地縁の無い人であれば、文献の読み方(解釈)の一つとして、徳島説を吟味する必要があると思います。

 ご挨拶が遅れましたが、ぶらいとさん、今年も宜しくお願い申し上げます。
3月末で退職して、年金生活に入る予定ですが、後任も決まっておりませんので(本当は昨年11月末に退職予定でしたが、年度末まで延長しました)し、年金のみでは生活できませんので、非常勤で勤務を続けるか、アルバイトを探すことになりそうですが、視力・体力が衰えていますので、条件に合うところがは果してあるものやら疑問です。
 

何ヶ月か前

 投稿者:ぶらいと  投稿日:2009年 2月 6日(金)22時24分50秒
返信・引用
  テレビで、邪馬台国は四国の徳島にあったとの説の紹介がありました。
九州説・畿内説が主流ですが、徳島説は、方向・距離が一致するというのが、主張の理由のようです。
調べてみると、これ以外にも実に数多くの説がありますね。
 

政府紙幣

 投稿者:ぶらいと  投稿日:2009年 2月 6日(金)22時07分15秒
返信・引用
  (インフルエンザ)
>熱が下がったと思っても油断できず、また熱が上がる傾向にあるので、5日間は外出しないほうが良いとお医者さんに言われました。

健康第一です。お大事になさって下さい。

さて、ニュースによると、「政府紙幣」など経済対策の新たな財源を探る自民党の「政府紙幣・無利子国債発行を検討する議員連盟」は6日、設立準備会を開いたとのことです。
ただ、麻生政権・日銀は否定的なので、実現するかどうかは不明です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090206-00000099-mai-bus_all

以前、聖徳太子のトピックで、5万円札のことが話題になったことがありましたね。私は経済の活性化のため、政府紙幣の発行はあってもいいのではないかと思っています。最高額の紙幣が聖徳太子の肖像の時は、過去、常に経済の成長がありました。聖徳太子が消えて、数年後にバブルが崩壊し、最近は経済危機を招いています。

今回、別に政府紙幣に聖徳太子の肖像を入れることが話題に上っている訳ではありません。
 

>インフルエンザ

 投稿者:ぶらいと  投稿日:2009年 2月 1日(日)17時39分38秒
返信・引用
  久し振りで書き込みます。
インフルエンザに罹ったとは大変でしたね。もう、よくなったのでしょうか。

私は、専門家ではありませんが、最近のニュースによると、今期のインフルエンザにはA型とB型があり、A型にはソ連型と香港型があるそうです。9割近くがA型のようで、50%以上がソ連型だそうです。このAソ連型にはタミフルは効かない(あるいは効き難い)そうです。そこで新たに注目されているのがリレンザという薬のようです。ただ、リレンザは飲み薬ですが、特殊な容器に入っており、服用時に穴を開けて、吸い込む動作が必要となるため、乳幼児には向かないかも知れません。
(以上、テレビとインターネット・ニュースからの抜粋情報でした。)

医療関係は、hn2602さんの専門分野でした。
hn2602さんはお元気そうで何よりです。やはり、歴史の方、お詳しいですね。
 
    (管理人) おひさしぶりです。ぶらいとさん、今年もよろしくお願いします。
インフルエンザでは、ご心配をおかけしました。
私が罹ったインフルエンザはA型です。今はちび姫がB型に罹って、保育園を休んでいます。
幸い熱も下がり食欲もあって、このまま治ってくれるように思います。ただ今年のインフルエンザは熱が下がったと思っても油断できず、また熱が上がる傾向にあるので、5日間は外出しないほうが良いとお医者さんに言われました。
体の抵抗力がとても落ちるので、余病も警戒したほうが良いそうです。
 

インフルエンザ

 投稿者:kituno  投稿日:2009年 1月22日(木)15時43分17秒
返信・引用 編集済
  久しぶりに寝込んでいます^^;
インフルエンザにはここ何年も罹らなかったのに、予防注射を受けたにも関わらず罹ってしまいました。

でも、予防注射のお陰で軽くすんでいるのか、タミフルを飲んだタイミングがよかったのか、熱は38度以上に上がらず、体の倦怠感や寒気、関節痛もさほどひどくなく、通り過ぎようとしています。

家族にうつしたくないので、お納戸部屋(ここしか隔離できる部屋がない^^;)に籠もっているのですが、この時とばかり古代史の本を読みまくっています。

今は「サルタヒコ」について読んでいます。

「サルタヒコ」って、すごくよく知られている神様なのに、とても不思議で何だか哀愁さえ感じます。「サルタヒコ」については、abenomaroさんへの返信としてYahooトピックに書き込もうと思っています。お楽しみに!!(って、期待している人いるのか??^^;)

hnさん、Minstrelさん、書き込みをありがとう!!
お二人の考えは、相変わらず興味深く、大変面白いです!
「邪馬台国」についての私の考えも少しずつ変化しているので、また皆さんと論じ合いたいと思っています。時々遊びに来てくださいね。(怠慢な管理人なので、返信が遅くなってしまうとは思うのですが、懲りずによろしくお願いします。)
 

ヤマトとヤマタイ

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 1月12日(月)01時07分31秒
返信・引用
  「邪馬台国」は倭人語の「ヤマト」を漢字で音訳したものだと思います。
そもそも、上代日本ごでは、母音の連接を嫌うのは有名ですが、それを遡った古代日本語(『魏志倭人伝』時代の日本語)でも同様だったと思われます。
したがって、「yamatai」(母音の甲乙は省略)などと言う音韻は、存在の可能性が低く「yamato」(或いは「yamado」?)という音であったと考えられます。

 実は、私は、「ヤマト」(大和)というのは、本来、「ヤマヒト」の縮約形(「ヒ」の脱落、または「ト」のみで「人」を表す語彙だった?)だったと考えています。
「隼人」は、「ハヤヒト」(早人、隼人)から「ハヤト」となった事は辞書にも記載されています。九州方面には、「肥人」(クマヒト)という集団もおりましたが、これは「クマソ」に変わったのではないか?と考えています。
で、神武天皇は「山幸彦」の子孫ですが、「ヤマサチヒコ」という名前は、「ヤマ」部族に「幸」をもたらす存在と言う語義であり、「山海」の「山」という語義は、後代のものだと思います。「海幸彦」が隼人族の祖として記紀に現れるのを考えれば、「山幸彦」が「山人族」即ち「ヤマト族」の祖であることは、自明の事だと思われます。

 尚、「ト」が「人」の語義であったと言う事は、「ヒコ」が「日子」(或いは「霊(ひ)子」)、「ヒメ」が「日(霊)女」の複合語だと考えられる事からも、「ヒト」が「日(霊)人」と解釈し得ることから、十分に推察できると思います。
「日」「霊」とも「ヒ甲類」であり、「ヒ乙類」の「火」とは異なった語彙であった事は確かです。

 神武東征とは、「邪馬」族の国から、移住が行われた結果、畿内ヤマトにその地名が「移った物だと漢府が得られます。『魏志倭人伝』には「邪馬台国」以外に旁国の「邪馬国」が在ります。この国の所在地は不明ですが、或いは、東征に参加しなかったヤマ族(ヤマト、ヤマヒト)の国だったのかもしれません。

 神武当世の時期は、応神天皇が400年ごろの人として(「高句麗好太王」碑あたりをその1世代前として考える)、その14代前の直系の祖先であるとすれば、一世代20年としてAD100年前後、25年とすればAD50年前後という事になります。
 AD57年は、後漢が「倭奴国」に金印を与えた年ですし、AD107年は、倭国王帥升の生口160人が献上された年です。

 地名と種族移動との関わりでいえば、ケルト系ボイー族の居住地であるためにBoiihaem(ボヘミア)と呼ばれた地方から、ボイー族がヘルウェティア(スイス)を経てガリアに移住後、ボヘミアに入ったゲルマン系マルコマンニ族のバユバールBajuvar支族がローマ帝国の衰えに乗して、ローマの長城limes decmatesを越えて、いわゆるデクマーテンラントに移住し、その結果、デクマーテンラントがバユバール族の名に因んで「バイエルンBayern」と変わったように、「ヤマ族の国」→「ヤマヒトの国」→「ヤマトの国」という名称が畿内の一部に生じたのだと思います。
 

移動の話し

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 1月11日(日)17時17分15秒
返信・引用
  hnさん、いろいろありがとうございます。
面白いお話しです。相変わらずお詳しいですね。

個人的にイメージするのは、邪馬台国が東遷するのなら、hnさんご紹介のゲルマン民族型になるのではないかと
思ったんです。
もちろん、『記紀』における神武のパターンがこれと違うのは理解しています。

古代において、部族単位での移動があったのは不思議ではないですし、私の住む千葉県でいえば、南部の安房は
徳島の阿波から移動してきた忌部氏によると言われています。地名の移動も色々あるようですし、黒潮に乗って
日本各地で部族の移動があったのも想像出来ます。
そしてそれは2〜3世紀にもあり得ることだと思います。

ただ、邪馬台国の場合、人口も多いですし、親魏倭王ですし、部族単位で語るのは大きすぎるのではないかと思います。
なので、神武東遷を邪馬台国の移動ととらえるのに、どうも無理があるように思うんです。

邪馬台国はすでに30国もたばねる大国として君臨していたので、それを放棄して遠方に移動するとなると相当の理由が
必要だと思います。
思いつくのは狗奴国に負けるというシナリオくらいです。

それともう一つ気になるのは、「ヤマタイ」国と「ヤマト」の音の類似です。
「邪馬台」を何と読むかは、それはそれで一議論必要ですが、少なくとも「ヤマ」は一緒です。偶然でしょうか?

邪馬台国内の一部族の移動、または神武一派の移動だとしても、故国の名前をつけたのか。
つけたのなら、国名を変更するほどの権限があったということになります。
大軍勢を引き連れての侵略成功というわけでもなさそうですし、なぜそんなに強い権限があったのか。

個人的に思うのは、最初から「邪馬台」=「ヤマト」=「大和」だったのではないか、ということです。
邪馬台国の東遷はなく、最初から大和だった・・・。

その昔は西から移って来た部族が大和に入って作った国なのだろうと思いますが、それは『魏志倭人伝』の世界より
ずっと昔なのではないか、と思っています。
そしてそれは神武の時代とも違う。神武の時代が『魏志倭人伝』の前か後かは分かりませんが、後かなと思います。
(根拠はないですが、何となくその方が崇神以降とすんなり結びつきそうに思います)

少し話しが飛躍していますが、部族の移動自体は沢山あったと思いますが、邪馬台国の規模ならゲルマン民族型に
なるのではないかと思います。
 

北部九州からの部族の移動

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 1月 8日(木)23時16分16秒
返信・引用 編集済
   Minstrelさんの仰る「国の移動」ということですが、部族(tribus、tribes)をどう捉えるか、というのが一つの視点を提供する事になると私は思います。
「部族」=「部族国家」と考えれば、一部族の移動は、即ち国家の移動と考えても良いと思われます。そもそも「国家(nation<natio)」は、部族国家か部族連合国家を指し示したものから、概念が拡張されたものであり、ローマ時代では、「帝国」と群小の部族国家・部族の相違は明らかでしたが、部族国家と部族自体の区別は曖昧だった様に思われます。
 ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には、ケルト人(ガリア人)や、ゲルマン人の多くの部族が現れ、数個の部族から王(rex)として認められた人物(ガリア人の王ウエルキンゲトリクス、ゲルマン人の王アリオウィストゥスなど)が現れ、また、タキトゥスの諸作(『ゲルマーニア』『編年史』など)にもマルコマンニ族の王マロボドゥスなどが現れますが、マルコマンニ(マルコマン族)は、『ガリア戦記』では、ゲルマン人の王アリオウィストゥスの傘下の部族として、カエサルとの戦闘に参加しています。
 結局のところ、ローマの史家は、「王」はその時々の有力な首長(各部族では、勿論「王」なのでしょうが)を指していっているように思われます。

 日本の古代の場合も、おそらく同様であり、各部族は即ち、「部族国家」であり、いくつかの部族の連合体、即ち部族連合国家の「王」として推戴されたものは、同時に「(自己の部族の)(小)王」であると同時に「(連合した数部族の)大王」であったということだと思います。

 神武東征が、北部九州東部ら行われた事は間違いないでしょうが、その際、本拠地に、どの程度の神武兄弟と同じ部族の者が残ったのかがわかりません。神武兄弟を族長家(部族の王)とする部族が、周辺の諸部族と、「連合」「同盟」していた場合、その故地は、同盟部族の残存者に委ね、基本的には部族全部を挙げて移住した場合は、「(部族)国(家)」が移動した(移住した)と表現したほうがよいと思います。
『記紀』から受ける印象では、九州の故地に神武兄弟と同様、その部族の王位に就く資格のある者(王族)が、残存していた、というようには読み取れないからです。

 西洋史のゲルマン民族の大移動の記事からは、人口増などである部族が移住を決意したときには、部族を半数ずつにわけ、(老)王が残り、王の嫡子が移住者を率いて出発するパターンが多いようですが、このような場合は、移住地と出発地の両王国は、常に連絡を保ち、移住先で王家が絶えた場合、故国から王族を呼び寄せて、新王に立てる、といった事例も記録されています。ヘルール族などは北欧出自ですが、ゲルマン民族の大移動の直前には、アゾフ海あたりに居り、大移動に際しては、ライン河流域に移り(ラインヘルーラー)、東ゴート王国とも通婚した小王国(諸侯国)ですが、移住地で王統が絶えたとき、故地から王族を呼び寄せて新王に立てたとされています。

 しかし、記紀を読む限りでは、北九州と大和にはそのような密接な関係を思わせる記事は認められません。基本帝には、大和に入った神武系王族に代わって王位を継承できるような「王族」は残っていなかったという解釈が正しいと思われます。
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 1月 7日(水)20時48分38秒
返信・引用
  少し遅くなったけど、新年のご挨拶に来ました。

邪馬台国の話しはいつになっても楽しいです。

邪馬台国東遷ってよく言われるけど、国が移動するってどういうことだろう。
神武のような有力者が他国に迎え入れられるのは想像出来るけど、国が丸ごと移動することがあるだろうか?
せいぜい神武とその付け人 数百人が精一杯では?

国が移動するとなると、王はもちろん、軍から国民から都から、生活の糧(つまり田畑)も移動する?
それはいくらなんでも・・・。

となると、国の移動ではなく、国の中の一部の有力者が別の地域に迎え入れられて、実質的には乗っ取った
カタチになった、ということだろうか。
神武東征はまさにそんな感じ。でも決して国が移動した感じではないと思う。

そんなんであれば、もといた国は健在で本家のようなもの、大和がその親戚のような立場になるはず。
東遷直後は九州にヤマタイ国、畿内にもヤマタイ(ヤマト?)国があったということになりますね。

そして九州の方はそのまま自然消滅したのだろうか?
宮崎というとクマソやハヤトに屈したのだろうか?
それともクマソかハヤトになったのだろうか?(個人的には邪馬台国とクマソは別と思っています)

魏に遣いを送り、親魏倭王を輩出するなど隆盛を極めた邪馬台国が、有力者一人を他国に送っただけで
間もなく消えてしまうというシナリオはどうも合点がいかないような・・・。

実は神武東征は、他に一緒に邪馬台国の首脳陣が全員着いていって、国のブレーン全員が畿内に移ったから
「国の移動」と言えるのだろうか?
しかし国の有力者が一気に国を捨て別の土地に移るというのもピンと来ません。

イメージから入りたがるMinstrelの素朴な疑問でした。

※年賀状は、忙しそうなので遠慮しました
 
    (管理人) 新年の挨拶をありがとうございます。
相変わらず忙しい新年を迎え、掲示板のチェックを怠っていたものですから、すっかり返信が遅くなってしまいました。

年賀状も今年は下さった方へ返事を書くのが精一杯で、今まで下さっていた方にとても失礼をしてしまっています。

今からでも「寒中見舞い」(・・・としても遅いかしら^^;)を出そうかと思っています。
Minstrelのところにもそのうち間の抜けた^^;はがきが届くかも^^;;

九州の邪馬台国はどうなったのか、という問題は、山幸・海幸の神話にその謎があるように思っています。
つまり、「隼人」に託したということです。

纏向遺跡が「ニギハヤヒの遺跡」ということについては、私は今確信に近いものを感じています。
 

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