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Re: 長髄彦と赤檮

 投稿者:Munyu  投稿日:2010年 2月 8日(月)20時58分20秒
返信・引用
  > No.1473[元記事へ]

お忙しいところ、時間を割いていただいてありがとうございます。お手数をおかけしてしまってすみませんでした。

私も、姓氏録和泉国皇別の登美首氏については、大和国の鳥見をウヂ名としたと見たほうがいいような気がします。百済の止美に由来するという説は、語呂合わせすぎというか、あえて海外に付会する理由がないように思います。和泉国へは、一族の人のうち、移り住んだものがいたのかもしれません。
また、上毛野氏族とする伝も、田辺史氏と同様、冒名冒蔭が流行する奈良朝末期以降の創作ではないかと疑えます。それに、迹見赤檮がこの登美首氏の人だったかどうかもわかりませんものね。首姓の登美氏が他にもあったかもしれませんし。
そうなると、大和の鳥見地域の支配体系としては、登美連(上位伴造・物部連同族)→登美首(下位伴造・在地系長髄彦後裔?)→鳥見物部(一般部民集団)というのが想定できるでしょうか。連姓の登美氏のさらに上位には、もちろん物部大連が乗っかってるんでしょうね。首姓の人たちは、中間管理職で大変そうですね。

ただ、真人姓の登美氏が用明天皇後裔とされ、やや時代が下ってから鳥見に本拠を持ったらしいのと同様に、首姓の登美氏も遅れて鳥見に住むようになった可能性もあるのが問題なのかもしれません。その場合は、物部大連家の滅亡によって、連姓の登美氏の力が弱まった影響も考えられるでしょうか。

他所のサイトで赤檮を長髄彦後裔にあててらっしゃる方がいる、その根拠についてなんですが、出典を示してるところを見たことがないので、わかりませんでした。
そこで、知る限りではネット上で最も古くに、この考えを示されたkitunoさんのサイトを、皆さんが真似たのではないか、と考えました。今、Googleで「長髄彦」を検索しても、上から第四位にヒットするようです。
他の方々が、図書館などへ通って調べることなく、ネット検索だけでお手軽に踏襲したのでは、という勘繰りが前提になってしまうので、自信があるわけではないのですが…
饒速日命に誅殺されたとされる長髄彦の子孫が、守屋大連に先祖の無念を復讐する、という見方は、因果・因縁めいていて、多くの人を魅了するストーリーだと思います。

本当に、レスありがとうございました。Yahoo!掲示板をときどき見ると、皆さん殺気立っているようで、そこに出入りされている方には恐いイメージを持っていたのですが、勇気を振りしぼって書き込みしてみてよかったです。親切にしていただけて、とても嬉しいです。また寄らせていただきます。
 

Re: 長髄彦と赤檮

 投稿者:kituno  投稿日:2010年 2月 5日(金)16時54分52秒
返信・引用 編集済
  > No.1472[元記事へ]

Munyuさんへのお返事です。

> 「聖徳太子」コンテンツ内にある、「聖徳太子と物部氏」のページについての質問です。
> 「おまけ」の段に、
> 「長髄彦(とみのながすねひこ)の子孫はその後「迹見氏」という小豪族になったとされでいます」
> とされておられますが、この出典をお教えいだだけますでしょうか。

まず、訂正から。
「されでいます」は、「されています」ですね^^;

この文章を書いた頃読んでいた本をいろいろ広げてみたのですが、どうも我が家の蔵書からは見当たりません。
本当に申し訳ないです。当時は、HPに書き込むため、図書館で本を読みあさったり(その頃地元に図書館がなかったので、他市町村の図書館に通っており、借りてくることができませんでした。)、雑誌の類を読んだりしていたので、それらの本のいずれかに書かれていたものと思います。
今になって、読んだ本は必ず記録しておくべきだったな、と思います。

> もしかして、「されています」との表現をされているものの、kitunoさんのオリジナルアイディアだったりするのでしょうか。

『日本書紀』の「登美」の地名譚に次のようなことが書かれています。(皆さんにわかりやすいように、現代語訳から抜粋してみますね。)

神武天皇即位前紀戌午12月4日の条に
【長髄というのはもと邑の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑と名付けた。今鳥見というのは訛ったものである】とあります。

さらに同日、饒速日命が長髄彦を殺害するシーン後、「長髄彦の部下を率いて帰順した」という記事があり、そのあたりから、「長髄彦一族は、その長である長髄彦を失った後、迹見(登美=とみ)氏を名乗り、その後も物部氏の支配下に入るのです」という説が見出されたのかと思います。長髄彦の名について『古事記』では「迹見長髄彦」と書かれており、長髄彦の部下(一族)が「迹見」を名乗っていた可能性はあるのではないか、と考えられます。その考えが私のオリジナルであったかどうか、または何かの本に書かれていたのかが定かではありません。

質問にきちんと答えられないこと、深くお詫び申し上げます。また、私のHP上の「されています」という表現も適当ではありませんでした。申し訳ありませんでした。

この件につきましては、今後も調べ続けたいと思いますので、出典がわかりましたら、この掲示板で報告させていただきます。


>迹見赤檮は長髄彦の後裔か

登美氏については、「真人姓」「連姓」「首姓」があるようです。(『日本古代氏族事典』雄山閣出版)
『日本書紀』に迹見赤檮は「迹見首赤檮」とあることから、「首姓」であることがわかりますが、同事典では渡来系氏族と見ています。しかし、私は迹見赤檮の勢力が生駒山であることから、長髄彦と同じ「迹見」であり、物部氏とともに皇軍に帰順した長髄彦一族の「迹見」ではないかと考えています。

> ここ最近、ウィキペディアやブログなどで、迹見赤檮を長髄彦の後裔とする見方を踏襲される方がちらほら出ているようです。

このように考えている方達の根拠をご存知でしたら、教えてください。

毎日ネットのできる環境にはないのですが、遅くなっても返信させていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
 

長髄彦と赤檮

 投稿者:Munyu  投稿日:2010年 1月23日(土)22時05分54秒
返信・引用
  はじめまして。
「聖徳太子」コンテンツ内にある、「聖徳太子と物部氏」のページについての質問です。
「おまけ」の段に、
「長髄彦(とみのながすねひこ)の子孫はその後「迹見氏」という小豪族になったとされでいます」
とされておられますが、この出典をお教えいだだけますでしょうか。一応、参考文献として掲げられている武光誠氏の『古事記・日本書紀を知る事典』などにはあたってみたのですが、探し方が悪かったのか、見つけることができませんでした。

もしかして、「されています」との表現をされているものの、kitunoさんのオリジナルアイディアだったりするのでしょうか。
ここ最近、ウィキペディアやブログなどで、迹見赤檮を長髄彦の後裔とする見方を踏襲される方がちらほら出ているようです。私が気づいたかぎりでは、kitunoさんのページがネット上では最も早く、この見解を取られていたように思います。更新カレンダーのほうも拝見すると、2002年3月のUPなんですね。

ずいぶん時間が経ってしまって、書かれたころのことをご記憶されていないかも、と申し訳ないのですが、よろしくお願いします。
「長髄彦一族は、その長である長髄彦を失った後、迹見(登美=とみ)氏を名乗り、その後も物部氏の支配下に入るのです」との見方、大変面白くて興味があります。
 
    (管理人) はじめまして。
書き込みをありがとうございます。また、私の拙いHPを読んでいただきありがとうございます。
このHPを作っていたのは2000年から2004年ごろまでに集中していまして、その後は様々な事情から思うように更新できなくなってしまい、また早くにつくった文章は勢いに乗って作ったので、誤字脱字等が氾濫しており、今となっては恥ずかしい限りです。
さて、長髄彦についての記事ですが、私の「おまけ」の前に<神武東征>−神武天皇の大和入り−に書かれていることから説明しなくてはならないかと思います。
少し長い文章文章になってしまいそうなので、枠を改めて書きこみたいと思います。
 

あけましておめでとうございます。

 投稿者:kituno  投稿日:2010年 1月 1日(金)03時57分24秒
返信・引用 編集済
  今年も、仕事と家事と育児と介護の一年になりそうです。

昨年の御用納めの時、職場の後輩に「kitunoさんは、ゆっくりしていられるイメージがない」と言われました。まずいな〜そんなイメージ。だから今年は、周りの人にそんな心配をかけないよう「忙しい」という言葉は禁句にしようっと。

できれば、Yahooの掲示板やこの掲示板で皆さんと昨年よりはたくさん話をしたい。
歴史仲間(と私が勝手に思っている^^;;)方たちのHPにも、できるだけお邪魔したい。

心にゆとりを持ちたい。
 

比較神話

 投稿者:瑠々  投稿日:2009年12月28日(月)09時27分46秒
返信・引用
  はじめまして。
かねてより、ギリシャと日本は神話、文化特に建築・彫刻などをシルクロードを通じて繋がっていたのではないかという仮説を立てていました。しかし、そのような説を見つけることはできませんでしたが、ここに初めて自分と同じ説を唱える人を見つけたことをうれしく思っています。
 
    (管理人) 私は、日本はシルクロードの終着点と考えています。正倉院にもシルクロードを通じて日本に伝えられたものがたくさん現存しますし、法隆寺にも明らかにペルシャの影響を受けていると思われる史料が現存しています。

日本の神話とギリシャ神話が類似しているということは、多くの学者も唱えています。私のHPにかけているのは、神話のページの参考文献を記していないということです。
神話のページの参考文献も掲載して、瑠々さんの参考にしていただけるようにしなくてはいけないですよね。^^
 

完本聖徳太子はいなかった。

 投稿者:いわお  投稿日:2009年 9月 9日(水)09時15分6秒
返信・引用 編集済
  このほど「完本聖徳太子はいなかった 古代日本史の謎を解く」石渡信一郎著(河出文庫)を購読しました。

私は様々な説を読み比べて楽しむだけの無責任な読者です。あしからず。

さて、同書の結論から2・3抜き出して見ました。

(1)推古天皇の時代、隋書に見える倭王「アメタリシヒコ」の正体は蘇我馬子であり、当時の大王家(天皇家)
は蘇我一族であった。用明・聖徳太子・蘇我馬子大臣はすべてその正体を隠匿するために創作された架空の人物である。
 山背大兄一族の滅亡事件は、乙巳の変(645年の蘇我入鹿誅殺)を正当化するための架空の事件である。

(2)天武(大海皇子)は天智の異母兄で、その正体は古人大兄皇子である。乙巳の変直後に即位を辞退、出家し
吉野に篭って間もなく反乱を企てて討伐されたというのも作り事である。

(3)これらの新しい神話・国史が創作された時期は705−707年と推定される。(持統天皇の葬儀が703年)

また、本書前半では、継体・欽明までの天皇の出自について興味深い記述があり、継体天皇直前の10代は
人物・事件の年代を1運(60年)から3運(180年)かそれ以上にも繰上げて生じた年代の空白を埋めるため
に設定した架空の天皇であると述べられています。
 
    (管理人) 石渡氏の説は、かなり大胆な説で興味深いですが、なかなか同調することはできません。

私は正史としての『日本書紀』の価値を重視しています。
文字が教養人にしか普及していなかった時代、『日本書紀』は中国に向けて書かれた史書で「国家事業」です。
そこに嘘八百を並べ立てては、国家の信用にかかわるのではないでしょうか。
『日本書紀』を読むと、中国の史書もずいぶん読んで、それに沿ってある程度記述していることがわかります。
また「わからない」ことは「わからない」と書き、後世の研究に期待するといったことまで書いている・・・創作した本ならそんなことは書きません。尤もらしいことだけを書きならべればよい。わざわざ「わからない」などとは書きません。

自分の持説を誇示するために『日本書紀』に書かれている都合の良い部分だけを取り上げてはなりません。
「架空説」の多くが、自分の都合のいい解釈で『日本書紀』を読んでいるようにしか思えないのです。   2010.1.1記
 

(無題)

 投稿者:うぬ  投稿日:2009年 7月10日(金)19時00分59秒
返信・引用
  せっかくご自分なりにお調べになったのですから、信長は母に疎まれていた〜とか断言なさらない方が良いですよ。
思い込みの激しい人間が書いたように感じます。

一級資料扱いが一転、偽書確定。
信じていたものに裏切られる気持ちも分かりますが、歴史なんてしょっちゅう変わります。

人間の想像力は豊富です。
特に身内に関しては良い様に書きたがります。

ネット上に存在する創作歴史小説をみんな一級資料扱いしていたらたまりませんもんね。

生駒家息女は織田家の後継ぎを産んだ。
それだけでよいのではないでしょうか。
 
    (管理人) 信長に関しては、思い込みが激しいかもしれません。
信長の時代、母子関係はどのような状態だったのでしょう。
武家の長子は生れるとすぐに乳母に預けられ、生母が育てることは稀だったのでしょうか。信長のことの前に、基本的な歴史の勉強のやり直しですね、私は^^;;

>生駒家息女は織田家の後継ぎを産んだ。
>それだけでよいのではないでしょうか。

確かにそれだけです・・・。   2010.1.1記
 

すみません

 投稿者:そこそこ歴史書  投稿日:2009年 7月 6日(月)16時00分55秒
返信・引用
  最近こちらのサイトに来ました いろいろ面白い話や投稿があり色んな考え方や解釈があるんだなあと日々思わされます ちょっと気になったのですが信長と吉乃の話ですが信長と吉乃が出会ってるときにはもううつけとか変な格好をしてる時期ではありませんよね きちんとした格好で何処に行くにもしていたのですから  
    (管理人) 私のHPに遊びに来てくださいまして、ありがとうございます。
昨年は返信に時間がかかってしまうことが多かったのですが、今年は、せっかく書き込みをしてくださる皆さんの失礼にならないよう、パソコンのできる日に必ず返信します。
申し訳ありませんでした。

信長と吉乃が出会った時を、私は濃姫と出会う前と考えているので、まさしく「うつけ」の格好をしていた時だと思っています。
『武功夜話』の影響から抜けられないのです。吉乃のことは『武功夜話』に書かれていることからしかわからないからです。
『武功夜話』は偽書で、史料ではなく「私小説」として捉えられてしまっていますから、それを元にして吉乃の物語を書こうとすること自体、問題があります。しかし、『武功夜話』に書かれている人物も場所も実在したことは間違いので、何らかの事実は含まれているに違いないと信じているのです。2010.1.1記
 

介護お疲れ様です

 投稿者:nick  投稿日:2009年 6月29日(月)08時56分25秒
返信・引用
  ご心痛ですね。
父は延命を尋ねたら激しく首を振って拒否しまして
この春、自宅で朝食後逝きました。

先生は再三挿入管による摂取を勧められたのですが。。
この三年程、在宅でも、毎食時、数回の吸引をしてました。
もちろん深夜も痰が詰るので、、、同じように何回も。
その都度涙目で見つめて哀願していました。
辛かったのでしょうね。
もうそれ以上のことは出来ませんでした。

ご健康に留意され充分の介護を。

☆6/14韓国岳からの天孫降臨の地・高千穂峯
手前は噴煙を揚げる新燃岳のお鉢(火口)

http://hayato.com/blog/

 
    (管理人) 2009年も12月となってしまいました。今頃になって返信するなんて、本当に申し訳ありません。
お父様が延命を拒否された気持ち、痛いほどわかります。
私の父も、管でつながれているだけで生きています。
自分が何をされているのかわかるっているだけに、本当にかわいそうでなりません。
最近は、自分で胃ろうの管を開けてしまい、流し込んだ流動食を体外に出してしまうようなこともしています。

倒れた時、あのまま自分のベットの上で死を迎えられたほうが、父にとって幸せだったのではないかという気持ちにさえなってしまうこの頃です。
 

ご挨拶

 投稿者:印西太郎  投稿日:2009年 5月 6日(水)18時03分54秒
返信・引用
  連休も最終日。物部氏関係の調べごとで、ネットを廻っていて、kituno様のホームページにたどり着きました。簡単ですがご挨拶させていただきます。こちらは、千葉県印西市在住で、里山巡りと古代史のことを休日に調べています。千葉県は古墳も多いです。常陸の方は筑波山と鹿島神宮に何度も行っていますが、香取の海を挟んで、古代には交流が多かったようですね。今後またご訪問することもあるかと思いますが、よろしくお願い申し上げます。  
    (管理人) ご丁寧にご挨拶をありがとうございます。物部氏についてはどうして興味を持たれたのでしょうか。是非聞かせてください。
私はなかなかネットに繋ぐことができない状況にあるのですが、また遊びに来て、千葉県の古代史について話を聞かせてくださいね。
よろしくお願いします。
 

聖徳太子も信長も

 投稿者:らびちゃん  投稿日:2009年 4月 5日(日)22時54分21秒
返信・引用
  ずいぶん昔、7年くらいまえにROMってたものですが、その時は太子と信長に恋してます!て正反対の人物でねぇか?て思ったんですけど最近堺屋太一さんが太子はユビキタス社会を目指していた!ていうのをきいて、信長も新時代の開拓者だったなて思ったんです。そしたらこの掲示板おもいだしちゃって
あたし思うんですけど今の時代は流れが早すぎないですか?あたし、といっても男ですが、信長みたいに未来思考じゃないと駄目だと思います。こんど東京スカイツリてできますよね?安土城みたいですよね。あづちて安寧の地の造語てきいたことありますけど。話はとびますが関宿城ていったことありますか?多分近いと思います。
 
    (管理人) 7年も前に遊びに来てくださっていた方がこうして書き込みをしてくださるなんて、本当にうれしいです。
私の中では、聖徳太子と織田信長と私自身は一本の線でつながっています。聖徳太子について知りたくなったのも、織田信長について知りたくなったのもただの偶然ではなく必然だったのだと思っています。
そして、掲示板を通して知り合った皆さんとも線でつながっているのです。
 

みなさん、ありがとうございます。

 投稿者:kituno  投稿日:2009年 3月20日(金)21時03分49秒
返信・引用
  掲示板の返信、必ずします。
その前に、私のブログをちょっと覗いてください。

トピックや掲示板は、携帯でも確認しています。
皆さんの書き込みをとても楽しみに読ませてもらっています。

http://blogs.yahoo.co.jp/kituno_i

 

法隆寺金堂再建の謎

 投稿者:いわお  投稿日:2009年 3月20日(金)11時59分5秒
返信・引用 編集済
  以前 Kituno 様のブログに1・2度コメントした いわお です。

去る3月15日晩、NHK総合TVのNHKスペシャルで「法隆寺金堂再建の謎」が放映されました。
(ご承知の方は以下読み飛ばしてください)

昨年終了した金堂の修理工事の際に、金堂天井板の年輪パターンを解析した結果、この材が調製された年代は668年と判明したとのことです。日本書紀にある天智 9(670)年の法隆寺全焼の2年前、したがってこの建物はこの時点でほぼ形を成していたと考えられ、他の発掘調査とも照し合せて、このとき焼けたのは、現在東院(夢殿)のあたりにあった若草伽藍と考えられるという結論でした。

現在金堂となっている建物は、天智天皇が聖徳太子の徳を、太子になぞらえた釈迦三尊像ほかを展示してたたえ、諸豪族に結束を説く場として若草伽藍の傍に建てられたことから始まるということであると、私は理解しました。、

(追記)梅原猛著「隠された十字架」(この本で、私は多少法隆寺に興味を持つようになりました)では金堂の本尊は再建後、他の寺から移されたと想像していますが、上記によればこの点は無理なく説明されると思います。だだ、鎌倉時代に製作(1232年)された阿弥陀如来像のところに従前置かれていたのは、台座の塗り残し部分の寸法から、夢殿の救世観音と推定していましたが、金銅仏と木佛(金銅のような外観に仕上げてある)の取り合わせは少々違和感があります。
 
    (管理人) 私もDVDに録画して見ました。
金堂が天智天皇の時代に建立されていた可能性が大きいことを知り、また火災にあっていなかったことを知り、ものすごく感動するとともに、私がHPに掲載している「天智天皇の謎」の中で推論した「天智は聖徳太子の孫ではないか」と説が何だか真実味を帯びてきたように勝手に思い込み、喜んでいます。^^;;
【2007年の法隆寺夏期大学で、現在の法隆寺金堂の本尊である「釈迦三尊像」に火災の跡が見られないことの理由の一つとして、法隆寺の五重塔よりも古い段階で現金堂が建立されていたことを示す建設学的事実もあり、仏像庫的役割として現金堂が若草伽藍と並立していた可能性も考えられるということを学んできました。】
...ということを昨年の4月にHPに掲載しました。
詳しくはトップペ-ジかた「若草伽藍と現法隆寺」をクリックしてください。
 

「ナ」

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 3月17日(火)18時15分36秒
返信・引用
  いつもながら論理的に教えて頂きありがとうございます。
hnさんの博識ぶりに感服しました。

「クン・ナラ」説はだいぶ昔に何かの本に出ていたのを検証もせずにウロ覚えのままでいたところですが、
奈良県内にそんなに「ナラ」のつく地名があるとは知りませんでした。面白い指摘に少し興奮しました。^_^
色々ありがとうございました。

「ナ」といえば、すぐに「奴国」を思い出します。
この「ナ」は「野」とか「地」の意味でしょうかね?
「野」や「地」ならば何となく「国」にも通じますね。
(「狗奴国」もですが、こちらは「クマソの国・クマ国」ということかもしれません)
 

Re: 「奈良」

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 3月 9日(月)01時45分26秒
返信・引用
  > No.1459[元記事へ]

Minstrelさんへのお返事です。

「やま」については、また後日、書き込みたいと思いますが、とりあえず「なら」について、コメントします。

> ところで、「奈良」とは、古代朝鮮語の「国」の意味だといいますが、一方で、日本語の「(土地を)ならす」の
> 意味だという説も聞いたことがあります。
> 「百済」が「クン・ナラ」で「大・国」の意味だとすれば、「奈良」は「国」の意でピッタリくるように思います。

> hnさんは「奈良」について何かコメントはありますか?(いつも質問ばかりですみません)

 奈良県下には 「なら」のつく地名が、確か1万ぐらいあるそうです。勿論、「奈良」という表記だけではなく、「楢」の表記など様々ですが、これらの「なら」地名の多さを考えると、「なら」が「国」の意味だというのは、ありえない話です。
「楢本」「楢山」「楢井」「楢坂」などの地名が多いようですが、これはやはり、小高い地形(岡、小山など)や谷などを「削平」した、即ち、「均した」ことによる地名が大半だと思われます。勿論、「楢の木」にちなんだ地名もあったかもしれません。

 「百済」の国名は、韓国側の史料では、「伯済」「百済」といった漢字国名の音(ペクチェなど)しかなく、「くだら」とこれを読むのは日本側の史料が主です。「ナラ」なる「韓国語」がたしかに存在し、それが「国」を意味する、という証明が確実になされている、という話も聞いた覚えがありません。満州・ツングース諸語で「地」を表す「na、naa」つまり上代日本語の「な」(地、古語の「なゐ<地震)」の「な」)やその母音交替形の「の」<野>については前にも触れましたが、朝鮮語にもこれらと同源の語彙としての「ナ」はありますが、「ナラ」なる「国」を意味する韓国朝鮮語の古い時代の語彙があった確証は、繰り返しますが、ないと思います。即ち、「くだら」なる、半島や中国の史料になく、日本側のみに存在する国名を、韓国語であると言いたいための臆説が「クン・ナラ」=「百済」という説だと私は評価しています。

 一方、「くだら」なる日本側に伝えられた国名は「高句麗」(韓国語では「コグリョ)」や「しら+ぎ」あるいは「斯盧<シロ)」「新羅(シルラ)」といった、語末音節の子音が「r(l)」といった流音になるのと一致しており、これが百済国人の自称した国名であったことは確かであったと思われます。これらの語末の「ら、り、ろ」などは、おそらく日本語の複数を表すために語尾に付される「ら」(等)と同源の可能性が高いと思われますが、とすると「くだら」という国名は、本来の部族国家の名称として考える場合、「くだ」族の国あるいは「「くだ」部族、という意味だろうと推測することは可能ですが、それ以上は、遡って解釈することは困難です。トンデモ説としては「ヤマヒト」⇒「やまと」とは逆の語彙変化を想定して、「く族」=「く・ら(族)」⇒「くだ」(ダはラから変化した)⇒「くだ(ク族)ら(国・部族)」という変化もありえるか?と思っていますが、この場合の「ク」族とは勿論、高句麗の族名が「ク」であると想定しえるからです。「高句麗」の「高」は美称(中国語からの借用?、王莽が高句麗王を「下句麗侯」に改めたことがあります)「麗」はラ・リ・ロ」(麗、羅、離など、半島周辺の部族国家の名称の語末音節に現れる)と考えれば、「高句麗」という名称は「大(高)ク(句)部族(麗)」と解釈可能だからです。ここで、百済が、高句麗と同じ部族だったと述べていることを想起すれば、本来両国の支配階級の氏族名・部族名は共通だったと考えられるからです。
 勿論、「高句麗」を日本側が「こま」(高麗、狛)国と読んだほかに「くれ」(高句麗の「高」を省いた「句麗」、通常「呉」とも表記されて、中国との混同が生じた?)と呼んだ可能性が高いことも考慮に入れています。
 

「奈良」

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 3月 3日(火)11時05分59秒
返信・引用
  山族というと、文字通り「山の民」というイメージ。
これに対し、古代、海人族の影響もあちこちに強く見受けられます。

大陸から渡って来た渡来人たちは海人族のイメージで、
日本列島に古来からいる縄文人は山の人のイメージととらえています。

もちろんそんな単純なものではないと思いますが、主流どころはそのようなイメージでとらえても
あながち大ハズレではないように思います。

邪馬台国=大和であり、山族であるということになると、もともとは縄文人の国で、
そこに外部の渡来人の影響を受けながら続いて来た勢力であったととらえて良いのかなと思います。
(邪馬台国というと弥生時代のシンボル的な存在なので、山族の国というのに少々違和感もありますが)

ところで、「奈良」とは、古代朝鮮語の「国」の意味だといいますが、一方で、日本語の「(土地を)ならす」の
意味だという説も聞いたことがあります。
「百済」が「クン・ナラ」で「大・国」の意味だとすれば、「奈良」は「国」の意でピッタリくるように思います。

日本と朝鮮は、太平洋戦争の関係で今だに心情的にギクシャクした部分があるので
お互いに相手より上位であることを主張したがりますが、hnさんの弁辰弥烏邪馬国や天神イヒカのお話しのように
古代においては、朝鮮と倭国の境はいい加減なもので、お互いに混ざり合っていたようで、
「これは日本、こっちは朝鮮」と分ける方が無理な作業だと思います。

hnさんは「奈良」について何かコメントはありますか?(いつも質問ばかりですみません)

蘇我氏は倭人王家の分枝ですか。少し考えてみます。
 

Re: &gt; ヤマトとヤマタイ

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 2月24日(火)23時05分9秒
返信・引用
  > No.1457[元記事へ]

Minstrelさんへのお返事です。

> 「ヤマヒト」は「山の人」でしょうが、弥生人、渡来人は海人族のイメージが強いように思います。
> 対して、縄文系は山族のイメージがあります。
> もちろん、そんな単純には括れないでしょうが、「邪馬台」が「ヤマヒト」で山族だとすると、
> その歴史は相当に古い可能性があると思います。魏志倭人伝の時代の少し前に渡来人がたてたようなシナリオでは
> ないと思えます。

   これについては、上代日本語の「やま」なる語彙が、北方起源、おそらくアルタイ語族(個の語族の成立は、怪しいと思っていますが、「言語連合」としてのチュルク・モンゴル・ツングース3語族からなる「アルタイ語族」という仮称としては使用してよいと考えています)の「daba」「dabagan」といった「峠」「峠を越える」「山」「境界」というようなひろがりを持つ語彙の日本語形だと私は考えています。日本語では本来は「mountain」の語義を持つ語彙としては、「たけ(岳、嶽<「高い」)」とか「もり(森、杜<盛り)」といった語彙だったと思われます。「やま」は、天上界と「中つ国」之境界であり、本来神の領域に近い、という語義から、険峻な「山」に「やま」の語が当てられるようになったと考えています。これに対して、「の(野)〉やその母音交替形である「な(地)」が対応する語彙でしょう。『魏志倭人伝』では、倭人諸国の国名30ほどが挙げられていますが、最も多いのが「○奴国」です。この「奴」は「な、の」の音写であり、8ヶ国あります(狗奴国、奴国など)。一方「邪馬国」即ち「やま」国を称している国名は、わずかに2つ、旁国の一つ「邪馬国」と「邪馬台国」です。おそらく、この旁国の「邪馬国」こそが、「邪馬台国」の出自の地であったのではないでしょうか?
 即ち、「やまひと」=「邪馬」国・部族の「人」の語義であり、移住先で、「ヤマヒトの国」→「ヤマヒト国」→「ヤマト国」と変わったのでしょう。

 尚、『魏志東夷伝』(倭人条もその一部)の韓条に「弁辰弥烏邪馬国」が在りますが、この国も「倭人」と無縁の国ではないでしょう。同じ東夷伝である以上、「弥烏邪馬」の「邪馬」も「やま」の音写であることは明らかであり、韓国語に「やま」という語彙がない以上、倭人語であると解すべきです。この国は高霊に比定去れますが、記紀に言う「おほから(意富加羅)国」即ち「大加羅国」であり、大伽耶山には、天神イヒカ(夷〈田比〉〈言可〉)が降臨して、伽耶山の山神との間に大伽耶と金官伽耶の始祖王ヲ儲けたとする伝承があります。「夷」=「ゐ」=「倭」、「田比」・「言可」即ち「ひか」は「ひこ」(日子、彦>)と解すれば、「イヒカ」の名義は「倭彦」と解し得ます。
>
> 何となく、縄文人は弥生人に追われて東国へ、というイメージがありますが、弥生時代の王者(?)である邪馬台国が
> 山族の国であり、更にその後の王でもある大和朝廷も同じく山族の国であるとすれば、縄文以来続く勢力がそのまま
> 王者になったのかもしれません。
> 純粋な縄文人ではなく、弥生人と混血になっていったのでしょうが、「縄文人=敗者のイメージ」は捨てなければ
> なりません。

 おそらく、渡来した少数の日琉祖語話者(Y−O2b集団)は、先住の縄文人(Y−D2)集団の一部を、取り込んで、これらの所謂「在来系弥生人」と連合して、「東征」あるいは東方への移住ヲ行ったのだと思います。

> そしてその混血しながら続いていった様が、神武東征として表れているように思います。

 私もそう解釈しています。

> 考えてみれば、渡来系といわれる蘇我氏や、東国出身(?)の藤原氏などとも混血化しながら続いていったのが天皇家
> なので、その姿はずっと大昔からあったのかもしれませんね。

 蘇我氏は倭人王家の分枝だったと思います。

> 大まかな流れを掴みたいので、私の個人的なイメージばかり優先した話しになってすみません。
> いずれにしても、魏志倭人伝の後の時代に邪馬台国が東遷したというのは、どうも違うように感じます。
> その時代にはすでに大和には一大勢力があり、それこそが邪馬台国そのものではないかと思います。
>
> hnさんは九州説支持でしたっけ?

いえ、畿内説です。私は神武東征の時期は、弥生時代の後期の開始期、AD57年の倭奴国朝貢か、あるいはAD107年の倭国王帥升の生口160人献上のいずれかと関係していると考えています。
 

> ヤマトとヤマタイ

 投稿者:Minstrel  投稿日:2009年 2月15日(日)16時28分47秒
返信・引用
  「邪馬台」は「ヤマト」ではないかというのは思っていましたが、hnさんご指摘の
「ヤマト」は「ヤマヒト」で隼人やクマソとの関連は興味深い指摘です。

「ヤマヒト」は「山の人」でしょうが、弥生人、渡来人は海人族のイメージが強いように思います。
対して、縄文系は山族のイメージがあります。
もちろん、そんな単純には括れないでしょうが、「邪馬台」が「ヤマヒト」で山族だとすると、
その歴史は相当に古い可能性があると思います。魏志倭人伝の時代の少し前に渡来人がたてたようなシナリオでは
ないと思えます。

何となく、縄文人は弥生人に追われて東国へ、というイメージがありますが、弥生時代の王者(?)である邪馬台国が
山族の国であり、更にその後の王でもある大和朝廷も同じく山族の国であるとすれば、縄文以来続く勢力がそのまま
王者になったのかもしれません。
純粋な縄文人ではなく、弥生人と混血になっていったのでしょうが、「縄文人=敗者のイメージ」は捨てなければ
なりません。

そしてその混血しながら続いていった様が、神武東征として表れているように思います。
考えてみれば、渡来系といわれる蘇我氏や、東国出身(?)の藤原氏などとも混血化しながら続いていったのが天皇家
なので、その姿はずっと大昔からあったのかもしれませんね。

大まかな流れを掴みたいので、私の個人的なイメージばかり優先した話しになってすみません。
いずれにしても、魏志倭人伝の後の時代に邪馬台国が東遷したというのは、どうも違うように感じます。
その時代にはすでに大和には一大勢力があり、それこそが邪馬台国そのものではないかと思います。

hnさんは九州説支持でしたっけ?
 

>ご当地邪馬台国説

 投稿者:ぶらいと  投稿日:2009年 2月 9日(月)00時55分37秒
返信・引用
  hn2602さん、こちらこそ、今年も宜しくお願い致します。

そうですか、退職後、仕事を続けられる予定ですか。医師なら次の仕事がすぐに見つかるでしょう。私は、最近、医学の研究のニュースや健康管理に興味を持っています。

>ご当地邪馬台国説というのがありますが、徳島説もその一つなのでしょうか?
>文献の読み方(解釈)の一つとして、徳島説を吟味する必要があると思います。

テレビでは、確か豊後水道を通り、高知沖を通り、徳島に行ったというようなことを言っていました。

しかし、インターネットで調べると実に多くの説があるようですね。卑弥呼は、神功皇后や倭百日日百襲姫というのが多いようです。

邪馬台国比定地一覧
http://inoues.net/waj.html
 

ご当地邪馬台国説

 投稿者:hn2602  投稿日:2009年 2月 8日(日)17時46分19秒
返信・引用
  というのがありますが、徳島説もその一つなのでしょうか?

 徳島説の提唱者が、徳島に地縁のある人であれば、その範疇に入れて良いと思われますが、徳島と地縁の無い人であれば、文献の読み方(解釈)の一つとして、徳島説を吟味する必要があると思います。

 ご挨拶が遅れましたが、ぶらいとさん、今年も宜しくお願い申し上げます。
3月末で退職して、年金生活に入る予定ですが、後任も決まっておりませんので(本当は昨年11月末に退職予定でしたが、年度末まで延長しました)し、年金のみでは生活できませんので、非常勤で勤務を続けるか、アルバイトを探すことになりそうですが、視力・体力が衰えていますので、条件に合うところがは果してあるものやら疑問です。
 

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